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2024年7月12日金曜日

夢を仕掛けとして扱う難しさについて考えてみた

夢オチについて考えてみた

最後の最後に「実は夢でした~😊」で許されるにはどうすればよいのか

夢のパートが圧倒的に面白ければよいのではないか

なんとか逃げ切れるのではないか

パワーで押し切ることができるんじゃないだろうか

でもすべてのお客さまにご納得いただくことは

つまり

すべてのお客さまに面白がっていただくのは

むずかしいんじゃないか

あるいは

無理なんじゃないか


ということなら初めから夢であることを提示してしまうのはどうか

そうしたら舞台でどれだけ突飛な物語が展開しても

「だって夢なんだもん」のひと言で説明が可能である

しかしそれでいいのか


覚醒時には理性に隠蔽されている

深層心理がのっと顔を出すのが夢である

ならば舞台で展開する出来事は

主人公の抑圧された願望の合わせ鏡

あるいは

主人公の抱える心の闇

「これは夢ですよ」と事前に提示して

ドロドロした黒い欲望や

ヒリヒリした心の傷を描くことは

果たしてエンターテインメントたりうるか


荘子の『胡蝶の夢』によると人生は果敢ないものらしい

テーマとして「人生の果敢なさ」は適切なのであろうか

夢のメカニズムには解明されていない部分も多いと聞く

物語を紡ぐにあたっての方便として夢を使うことは

まして夢そのものを物語の主眼として扱うことには

いささかの躊躇を禁じ得ないです


bgm:Blur『Song2』

2023年10月3日火曜日

2対1の練習というのはですね

2対1というのは、たとえば、刑事と探偵が2で、容疑者が1です。

刑事と探偵はそれぞれ同じ情報を与えられますが、そこから導き出す答えが違います。

だから実際には、正義と悪との争いではなく、正義と正義のぶつかり合いが正しい。

最終的に、どちらのシュートがゴールネットを揺らすのか、ということです。

同じように、ヒロインが1で、ヒロインを争う男たちが2という構造も考えられます。

患者に寄り添う医師と、冷酷で拝金主義の医師とが2で、難病を抱えた患者が1。

この場合、2の側は〈共生〉していることが肝心です。

相手をなんとか出し抜いて優位に立とうとするけれど、

相手がピンチに陥った時には、ちゃんと「塩」を送る。

相棒(バディ)ものと呼ばれる一連の作品が、大いに参考になります。

ほとんど、いや、絶対に、凸凹コンビが主演を務めているはずです。

ちなみに客電を落とすというのは、帳を降ろすことです。

2023年8月10日木曜日

スケジュール感覚

まんまとブログの存在を忘れていました。
「活動”日”誌」は偽りです。
「こもごも雑記」とでも冠しましょう

舞台の作り方なんて
いつだっていきあたりばったりで
むしろその時の劇団員の面子に
左右される部分が大きいようで

台本の締め切りはいつだ?
衣装は買うの?縫うの?サイズは?いつまでに揃えるの?
装置の工作は外でやるんでショ?雨が降ったらどうするの?稽古場で叩くの?
その場その時で判断するから
これという正解はないですよね
自由度が高いのはいいけれど
高すぎるんですよね
公演日から逆算して計画を立てる
しかしスケジュール通りに進行するなんて
ありえないことですね。
(幸福な舞台もあるにはありましたが)

まず台本が完成するのなんか
本番直前です
(これはどこでも同じですよねそう信じたい)
稽古しながら変更に変更を加えて
上演台本らしきものになるまで
稿を重ねていきます
あら、そういえば既成ってナニ?それおいしいの?

台本がないのだから
衣装や装置も決まりません
押せ押せのスケジュールになるのは必然です

うちには「楽譜」は存在しない
楽譜の通りに演奏ができたところで
それが何になるんだ
自分たちが
いま、ここで、伝えたいなにかを
どうやって伝えるか、その手段は
全面的に委ねられている
完璧な意味での自由
自由であるがゆえの不自由
何が不自由であるかすらわかっていない不自由
不自由に無自覚だからこそ到達できる自由の境地
う~ん、なにがなにやら



2021年4月5日月曜日

他山の石なら砥石になるんだが

自分が見たいのはどんな芝居か、を考えることは、

同時に、どんな芝居を板にかけたいか、ということにつながります。

自分が見たいとも思わないような芝居には、

板にかけるだけの積極的な動機は、どこにも存在しません。


見ていて嫌ぁ~な気持ちにさせられるのはどんな芝居か。

まぁ、あくまで私見ですがね、ちょっと考察。


まず、自己の内面が~とか、描きたいのはわかりますが、

主人公がグジグジ悩んでる姿を「延々と」 見せられるのはどうもねぇ~。

いつまでも怒ってたり、泣いてたり、情緒がどうにかなっちゃってるんじゃないか?

そんなんが舞台に出てきて、そんな姿をず~っと見せられ続けたら、

まじめな観客ほど疲れてしまいますよ。

テーマとしてはわかるんです。

アイデンティティの危機はテーマとして大事。

問題は見せ方というか、料理の仕方というか、なんです。

「見せる」のではなく、どうしたら「伝える」ことができるか、

考えて欲しいんですよね。

あまり客席を馬鹿にして欲しくないって思うんですよ。

「俺はいま、悲壮感に苛まれているんだ」って語らせるのは、

脚本家がバカなんです。

ギャグだったとしたらアリなんですけどね。

ま、全然おもしろくないですけどね。


それと、これも私見ですが。

メタ発言も多少なら我慢しますが、あまり繰り返されると疲れますね。

楽屋オチみたいなネタは、ぶっこまれるとシラケるだけです。

観客の一部だけが盛り上がってるのって、嫌じゃありません?

作者に関する発言だったり、演じる役者さん個人についての発言だったり。

ましてそのカンパニーの先行作品のネタだったり。

おいおい、みんながみんな、あんたんとこの前作を観てるわけじゃないんだぜ。

知らねえ~っつうの。(ホントは知ってるけど)

ファンサービスのつもりでやってるとしたら、それは間違いだろと。

おいてけ掘を喰ってる人は、嫌ぁ~な気持ちになってるんですよ。

ここまで忠実に物語世界を楽しんできた観客に対する、

それは紛れもない裏切り行為なんだっていうことに、

いい加減、気づけよ。


でもまぁ、こういうトコで愚痴ってたって、界隈は変わらねえんだろうな。

以て他山の石とすべし、であるか。



2021年4月1日木曜日

脱・ドラマ演劇について

バイストン・ウェルの物語を、
覚えている者は幸せである。
心豊かであろうから。


「脱ドラマ演劇」について。
ドラマは演劇の可能性のひとつにすぎないと考えます。
可能性の選択肢でしかないにも関わらず、
私たちは「物語る」構造を盲目的に選んできました。
まだ観客であったころ、やはり舞台では「物語る」演劇が展開されてました。
見事にインプットされちゃいましたね。
演劇かくあるべしと思いこんじゃった。
最初に見たものを親だと認識しちゃった。

しかし、メディアが度外れて肥大化している現代において、
演劇とはドラマを語るものだ、と規定してしまうことは、
世界を狭くしてしまう。息苦しいものにしてしまう。
そこで「物語らない」演劇の手法を考えようと思います。

しかしそれは言葉を否定するってことじゃない。
むしろ言葉の持つパワーを今まで以上に重視します。
言葉が元来孕んでいる音楽性や身体性を信じます。


ところで、発表機会なんですが、
地区発表会というものが開催しにくくなっている状況で、
ここはやはり校内公演の充実を考えねばなりません。
しかし、窓を開放して換気しながらということだと、
暗転は演出として使えません。
それどころか、照明効果そのものがそもそも思うようには使えない。
お客さんだってこれまでのように詰め込むわけにはいきません。
場合によっては教室ではない場所での発表も視野に入れなければなりません。

そもそも教室をブラックアウトしたところで、
演劇的な意味からはそれって無ってことでして、
わざわざゼロにすることが果たして得策なのか、
よく考えなければならないと思いますね。

これも演劇には「完全なる闇」が必要だ、という思い込みなのでしょうね。
私たちはおかげさまで、
農村歌舞伎の舞台だったり、
かしわンの野外劇だったりを経験しています。







2021年3月31日水曜日

なんでもかんでも説明すりゃいいってもんじゃないよね

弊社の『でぃすたんす』は、

ぜんぜん「動く」じゃなかったっすね。

かしわンのテーマはガン無視でしたね。

平和のほうに軸足を置いちゃいましたから。

前日に開催された柏市のイベントのほうに、

まぁ寄せちゃったんですね。


いいわけしていいわけないだろーけど、

孵化する前のひよこちゃんが殻の中で蠢くみたいな。

そういう意味でなら「動く」でしたけど、

それじゃあ物語のテーマじゃないんでね。

なんだか4地区として「動く」になった感じですか?


じゃあお前らは「平和」を描ききったのか、

と、問われると雀の卵ほどの自信もないのですが。


橋田壽賀子さんのことは崇敬しておりますが、

「家事をしながらでも耳で話を追えるように」

という工夫が凝らされた長ぜリフは、弊社では禁じ手とされております。

やっぱりテレビと舞台の違いですね。

セリフでの説明に落とし込まない。

状況を表したいならキャラの行動で。


弊社の伝統というか、ヘンなこだわりなんですが、

「平和」がテーマだったら、

「平和」というワードを使いたくないんすよね。

なんでもかんでも説明することが ださい と思っていまして。

まぁ世の中的には流行ってるっていうかそうなってるっていうか、

説明過剰がデフォルトになっちゃってますよね~。

語られない部分を楽しむ人が少なくなってきてる。

それは良くないことなのではないかと。

なんか庵野さんも似たようなことを言ってましたね。


*************************

橋田壽賀子先生におかれましては、

2021年4月4日、急性リンパ腫のため静岡県熱海市のご自宅で逝去されました。

生前の功績を讃えますとともに、冥福をお祈り申し上げます。

2021年1月30日土曜日

曲先という方法もある

曲を聴いてイメージを膨らませ

そこからシーンを連想することもひとつの方法です 

メロディに歌詞をつけていくようなカンジ?

これまでに何度も試している方法です


弊社の芝居をご覧になった方からのアンケートに

MEの選曲を高く評価してくださるものが多いのは

そういう創作方法にも一因がありそうです


内容と無関係な画像シリーズ「筑波山」です



部室に百数十枚ある手持ちのCDを聴きまくりましょう

好みの一曲を見つけ出すまで


平和はありがたい

ありがたいは「有り難い」 だから

逆に言えば「争い」 のほうが日常なのかもしれません

平和は努力しなければ手に入れられないものなんでしょう

人類がこれから先に進むのには

どうしたらいいんでしょう


もう一年以上前の話になっちゃいましたけどね

前回公演はふざけていたので

今回は切ない物語をやりたいと思ってます

ライブ配信も視野に入れて準備をしています

とはいえ「やっぱり舞台はナマ!」 というスタンスに変わりはないですが


がんばっていきまっしょい!

2021年1月28日木曜日

Don't move!

もうひとつのイベントが要求しているテーマは「動く」です。

そこで弊社では「動かない」という選択をします。

舞台を所狭しと動き回る芝居も嫌いじゃないですけどね。

登場人物がじっと動かないでいるというのはどうだろう。

ふたりキャストがいるので、ひとりは動くがもうひとりは動かない。

そうすることで対比の妙を出すとか出さないとか。

普段、エチュードではいかに動けるかが成否の鍵だったりするのですが、

そして演出部もまた動くことを要求しがちなんですが、

とにかく動かんのよ。

物語の中でたった一度だけ動く。

大きな意味のある「動く」という行為をする。


それまで散々に耐えて堪えて我慢して、

最後の最後に立ち上がる、みたいな。

愛する者を守るため、みたいな。

オマエは旅立ち、みたいな。ある意味。

カタルシスってやつが発生すればいいな、と。


リテイク!

現役劇団員諸氏に告ぐ!

いーですか!

戦争について語ることはしません!


今回は「平和」について考える絶好の機会です。

平和について物語る芝居が求められています。

弊社の経営上、いつもと違う挑戦ができるのはありがたい。

ありがたいんですが、ね。


平和を物語ることは「戦争」を語ることと同義なんでしょうか。

確かに戦争に言及することもひとつの方法だと思う。

社員一同で柏市の戦争遺跡を巡り、

図書館で資料を集め、

戦争経験者に取材する。

そんなアプローチも可能ではありましょう。


しかしですね、

付け焼き刃は剥げ易い。

戦争について知ることと、

それに基づいたお芝居をこさえること。

両者のあいだには、

決して超えられない大きな溝があるように思います。

生半可に手を出してはいけないと思うんです。

太平洋戦争に直接触れることは避けようと思います。

いーですか、

直接は触れませんよ。


今回の芝居の枠は20分です。

短い時間を濃密に描き切らなけあいけません。

きみたちの台本は、

というよりプロットは、

とにかく書き直しだかんね。



BGM: battenn girls 『OiSa』 

2021年1月25日月曜日

続オンライン部活

まだ、新型コロナウイルスと人類との闘いは続いていた

(永井一郎氏の声で読んでください!)


本校でも部活動は全面的に禁止です

関東大会も映像審査になっちゃいましたね

もっと話題になってもいいんじゃないかと思ってますけど

競技種目によって騒がれ方が違いますよね

大きなイベントなんですがね


要するに放課後の学校に居残らなければいいんですよ

弊社ではこの場を利用して部活動していきますよ

まずは上演台本を完成させます


SF作品にすることはやぶさかではありません

ただし設定に凝った台本は勘弁して欲しい

なぜならお客さまはお芝居を観に来てくださるのであって

「設定の妙」を楽しもうとは露ほども考えていない

まして素人のこさえた世界なんて言っちゃ悪いが凡庸でしかないのよ

もちろんブーメランだってことは百も承知ですがね

だからね、せいぜいSF風味にとどめておく

アイデアはひとつかふたつに限定する

間違っても世界観を押しつけたりしないこと


大事なことなので繰り返し言います

お客さまはお芝居を観に来てくださるんです

じゃあ「お芝居」って何じゃろ?

お客さまが期待しているものを裏切ってはいけません

「お芝居」の最大公約数を考えんといけんですね

誰もが抱いている「お芝居」観を裏切ったらダメですよ

(ばってん予想は軽々と裏切ってもよかよかだんす)

制約の中でどこまで跳べるかあるいは遊べるか

そこを攻めていこうじゃないの

2021年1月15日金曜日

オンライン部活









さて、引き続き意味なし画像です。

どこの学校にもある教室セットですね。


二人のアイデアの弱点がもうひとつ。

新型コロナ禍の中での上演を想定していますか?

両者ともに「闘う」場面がありそうじゃないですか。

それは密にはならないのか。

役者が密にならない戦闘シーンって?


キャストの人数も考慮しなくてはいけません。

男女1名ずつだということを。

二人がまぁ闘うとしてですよ、

役者二人の舞台上での距離を保つ必要があります。

離れてバトル? 目からビームでも出しますのん?

赤胴真空斬りでも出すんですかい?

稽古中も密を避けられるようにしないとね。


コロナを意識しなければならない。

とはいえ、直接的に取り扱うことは避けたい。

弊社はそういうのやらない流儀なんです。

そういうのは誰か別の方々に一任します。

みんなで力を合わせてこの局面を乗り切りましょう、みたいな。

文部科学大臣推薦、よいこのJISマーク、みたいな。


弊社の社員ならわかるよね、そういうの板に掛けたいですか?

それって楽しい?

いや、自分たちじゃなくてさ、お客様がよ。

ただでさえ現実の生活でコロナに追われてるのに、

舞台見に来てまたコロナかよ。


条件はこれ↓だけです。

1)客席と舞台のソーシャルディスタンスを保つ。

2)役者二人の間にもソーシャルディスタンスを保つ。

両者ともアイデアをより磨き上げて再提出してください。

できれば部分的にでも台本形式で拝見したいものですね。



あ、あとそうだ。

3)「平和」と「動く」をセリフで処理しないこと。

4)世界観を説明するための芝居にはしないこと。

設定に凝るのはいいんですが、説明することに躍起にならないで。

ラノベじゃないんだからね。


それからついでに、

5)「確か…」とか言いながら妙な間を空けないこと。

6)「そういえば」で安易に話題を変えないこと。

7)相手の名前を呼ぶのに必然性を持たせること。

ま~ぁこの辺の話はまた機会を改めて。

注文が多くなりました。

でも大事なことなのでここに書いときました。


2021年1月11日月曜日

まずは感想












何も載せる画像がなかったので、この寒いのに阿里山烏龍ミルクティーを。

意味なしです。


冬休みの課題として、部員の二人には新作のアイデアを考えてもらいましたよ。

以下、内容には深く突っ込まずに感想を述べてみます。

二人とも演劇のことなんてほぼ知識ゼロですから、期待大です。

変に舞台の約束事とか知っちゃう前に、自由に発想してもらおうという計画です。


まず、若者の可能性を感じましたね。

そもそも、書いてきたことに驚きです。

正直に白状しますと、書けないと思ってました。


どれどれ、拝見しましょう。


ふんふん……




なるほろ




あー、そうきましたか。

(パタン)


え~、

二人ともSFお好きなんですか?

う~ん。

しかし、残念ですが……

その設定はありがちです。

というより、

実は、そのアイデア、

劇団ERAの過去作品の中で、

すでに扱ってます。

いやむしろ、ナツカシイ!

いくつかの作品が連想されますね~。

いいえ、だから「ダメ」 っていうわけじゃぁありませんよ。

なにせ50作品超ありますから、

アイデアが被らないようにするのは難しい。


素人が斬新な設定を思いつくのって、なかなか大変ですよね。

しかもヘタに難しい設定をすると、説明にムダな時間を割かなきゃならない。

だから、設定はありがちなものの方が、むしろいいと思います。

大切なのはその設定を「どれだけ活かせるか」 という部分ですから。


あと、両者に共通して言えること。

う~ん、

そのネタは、

漫画で表現したほうがいいんじゃないですか?

あるいは小説とか。

演劇という手法を用いなければならない動機がありますか。

それが一点でもあれば、脚本にする価値はあると思います。


その場面には役者の肉体が必要ですか?

生身の役者でなければ成立しないセリフがありますか?

のっぴきならない動機ってのが、あるかないか。

とても重要だと思います。


あと最後に、

予算的なものも考えないとね。



2020年12月29日火曜日

視座を逆転する

視座を逆転させて、お客さまの立場になって考える。

自分がお客さまの立場だったらどうか、ということを考える。

どんなお芝居を見たいと思うんだろうか。


「予想を裏切り、期待に応える」 という言い回しがある。

人間というのはわがままなもんで、予想通りの展開には月並みの烙印を押す。

といって、期待の遙か上を行くものには拒絶反応を示す。

お客さまに受け容れられる作品を創るのは骨が折れる。

突き放したり、寄り添ったりと、忙しいことこのうえない。


ところで、テーマのことである。


世の中にはテーマが明確にわからないと不快になる御仁が一定数いる。

テーマなんざ、どーだっていいじゃねえか、と、こちとら思っとるんだが。

しかし、厄介なことに(お節介なことに)、

今回はあらかじめテーマが明示されている。

「平和」 がテーマであろうと、「動く」 がテーマであろうと、

弊社がこれまで採ってきた立場はこうだ。

お客さまのインテリジェンスを侮ってはいけない!


たとえば「愛」 がテーマの芝居だったとして、

劇中で登場人物が「愛とはなんだ!?」 と正面切って叫ぶのはどうだろう。

たしかに、これほど明確な伝え方はないだろう。

これなら、メッセージは確実に客席まで届くだろう。

しかし我々はその手法を善しとしない。

客席のニーズはそこにはない、と弊社では考えるのだ。

テーマを直截的に申し述べることは、観客を馬鹿にしているとさえ思うのだ。


今回のようにテーマありきのイベントであれば、

テーマとなっているそのワードはセリフで語らず、

いや、むしろ禁句にするくらいがちょうどいいのだ。


お客さまのインテリジェンスを侮ってはいけない!

大多数のお客さまは、実は語らずともテーマを悟ってくださる。

惜しくも乗り損ねた人が、観劇後にしつこく聞いて来る。

「テーマは何ですか」 とか、眠いことを云うのだ。


BGM : Lady Gaga 『Poker Face』

2020年12月26日土曜日

創作ならなんでもいいってわけじゃない

前回の年内最終宣言、やはり裏切りました。


演劇部員に告ぐ。

次回公演の脚本を鋭意執筆中であろう。

然しその前に、弊社の企業理念について申し述べましょう。

ご存知のように劇団ERAが板に掛けるのは自社制作の演劇台本に限ります。

が、ERA謹製であればなんでもいいってわけじゃありません。

よろしくない脚本はコンペで容赦なく却下します。


最低限セリフは意図通りに届いてほしいんです。

もちろん役者は、そのための努力をちゃんとしなきゃダメです。

声が小さかったり滑舌が悪かったり、

それでもいいんだそれが自分らしさだっていうのはナシですよ。

努力という言葉がダメなら工夫と云ってもいい。

役者の自己満足で終わってはダメだと思います。

お客さまの快適のことを第一に考えてください。

セリフが聞きとれないのって、かなりなストレスでしょ?


意図した通りにセリフが届くように、

脚本の段階から配慮してほしいんです。

セリフのすべてに計算を施してほしいんです。

舞台は日常の延長線であってはならないと思ってます。

「静かな演劇」というものがありますが、

あれだってよっぽど計算されつくしてるんですよ。

教室で友だちとするフッツーの会話をそのまま書いてはいけない。

そんなの高校演劇にでもやらせときゃいいんです。

 

言葉として卑俗なもの、生活感が出すぎるものは避けましょう。

たとえば<スマホ>というワード。

LINE>とか<既読無視>とかにも、抵抗を感じましょう。

だって、自分たちの創造物には美しくあってほしいじゃないですか。

というか、もっと客層を意識しましょうよ、という。

そういう限定的な言葉って、想像の余地がないでしょう。

ターゲットというか、対象とするお客さまの人数が減ってしまうし、

なにより表現の幅が狭くなってしまいます。

iPhone持ちで、LINEやってて、既読無視されるひと、限定になっちゃう。

そこに当てはまる、ちょっとのひとにしか刺さらなくなっちゃう。

だから避けなければならないと思ってます。


そういう意味で云っても、内輪ネタは絶対にやっちゃいけないんです。

お客さんがみんな同じムラの住人じゃないことは肝に銘じるべきです。

CMネタを延々と垂れ流しする舞台がありましたが、

あんなの木戸銭を取ってまで見せるもんじゃないですよ。

演者と観客に共通する文化ってCMしかないのかって、

寂しいというか、送り手の意識の低さに呆れますわ。

みんながみんな同じ文化的背景で生きてるわけじゃない。

そういうのを入れた途端に、その芝居は下品になるんです。


BGM:Newspeak「Jerusalem (Acoustic Session)」

2020年9月28日月曜日

今日の講義は「作劇法①」です

映像向けのシナリオ術なら、書店の棚にたくさん並んでいるのですが、
演劇の脚本についての指南書というのは、まずほとんど見当たりません。
それでも何冊かの良書を探り当て、
十何冊の中から、最大公約数を弾き出しました。
(遠回りもずいぶんしましたけどね、うん)
今日の活動は「作劇法」です。しかも「①」です。
「②」は明日やる予定です。
今日の講義で使った資料を以下に掲載します。

大前提としてなぜ演劇なのか
そもそも、その物語を物語るのに、
演劇が最適の表現手段であるかどうか。
この部分をきっちり考えなければならない。
そもそも舞台というものは時間も空間も制約だらけなものである。
こんなガンジガラメの手法をわざわざ選ぶ意図がどこにあるのか。
それでもなお演劇という手段が有効であるか。
映画の方がいいんじゃないのか。
漫画やアニメーションの方がいいんじゃないのか。
小説の方がいいんじゃないのか。

創作脚本というもの
定義づけが間違っていたら済みません。
「戯曲」というのは上演不可能であっても構わない、
いわゆる文学として位置づけられるもの。
でも、われわれが創作するのは「脚本」である。
「脚本」は上演のための素材、設計図のこと。
あくまで上演することが目的だから、
カンパニーの中で共通理解が得られれば、体裁など関係ない。
そんなもんにはこだわらなくていい。
こだわるのは、そこじゃない。
大事なのは、書かれていることが舞台上で実現できるかということ。
技術的に無理だったり予算的に無理だったりしないか。
場所や時間、人数的な制約はないのか。
倫理的な問題もクリアする必要がある。
ところで、舞台上では何が無理なのか、
何が可能で何が不可能かを知る必要がある。
逆に言うと、不可能だと思われていることをやってのけること、
それは演劇の可能性を拡張するということである。
このチャレンジをしない若い人たちが多いよね。
もちろん禁忌にはそれなりの理由がある。
ヘタに破ってしまうと、そのホールに出禁を喰らう。
遵法精神に則って、逸脱できるところはおおきく跳ねる。
劇団ERAが毎回のように演劇実験を試みるのは、そのような理念による。

登場人物の典型がある
観客が感情移入しやすい人物を造形する。
高校演劇においては主人公はやはり高校生がテッパン。
登場人物はその親、教師あたりか。客層に合わせる。
主人公が成長(変化)する過程を描くのが物語である。
主人公は何かを喪失している必要がある。
というか、人間なら誰でも不完全なところがある。
本人の性格的な欠点でもよい。
たとえばやさしさが欠けている。
取り巻く環境に欠けたところがあっても良い。
たとえば平和が欠けている。
これを完全なものに回復するために主人公が動く、
その過程に物語が生まれる。
主人公の行動の動機は、ひとつでなくとも構わない。
主人公が物語を通して一番大きく成長(変化)する。

リアルなものはグロテスクである
大衆の耳目を集めるエピソードというのは非日常の中にある。
のほほんとした日常には興味深い刺激的な事件は起こらない。
しかしながら、リアルを舞台で再現するのは悪趣味ですらある。
役者は嘘をつかなければならない。
「ほんとうのこと」と「人が『ほんとうらしい』と感じること」とはズレている。
物語は所詮は嘘だし、嘘で構わない。
けれどリアリティのある嘘でなければならない。
嘘はうまくつかなければならない。
リアリズムなんて邪魔な考えは捨てるべきである。

++++++++++++++++++++++++++

今日はその他に、音響・照明の講習会も実施しました。

2020年8月30日日曜日

もうアスカじゃない

昔話で恐縮です。

劇団のレパートリーに『MELTING POINT』というのがあります。

2007(平成19)年の秋季地区発表会で上演した作品です。

もちろん創作脚本であることは言うまでもありません。

主人公は天馬アスカという名の高校生。

いきなりですが、彼女の正体はアンドロイドです。

(当時はそういうジャンルの作品も板に掛けてたんですよねぇ)


「天馬」という名でご想像の通りなんですが、

このアスカは、天馬博士の亡くなった娘・明日香をモデルとして造られました。

ちなみに博士はアスカをサーカスに売ったりしません。

死んだ明日香から「記憶」を取り出して、

アスカの「人工知能」にラーニングさせています。


なんやかんやがありまして物語の終盤。

人類を救うためアスカは暴走を始めた原発の炉心に突入して行きます。

自らのボディの融点=melting point も顧みずに。

結果、人類の危機は去り、アスカは融解してしまいます。


ラストで天馬博士の助手である飯田橋が言います。

「また造り直せばいいじゃないですか。バックアップは取ってあるんでしょ?」

これに対して天馬博士が言います。

「技術的にはね。でもそのアスカは、もうアスカじゃない」


何年も乗りまわした愛車を廃車にしてしまったあとで、

たまたま同型の車輌を街なかで見かけたとしても、

そりゃたしかに懐かしいとは思うかもしれないけれど、

でもそれは同じ車ではありませんよね。

ちょっとぶつけてできたへこみ。

アクセルやブレーキのちょっとしたクセ。

機械にも個性があります。

単なる道具だと割り切ることなんてできないです。


あ、でもイズの再生には賛成です。


2020年3月17日火曜日

カラフルの4人娘

『汚れつちまつた』で採用した人物配置は、
やっぱり王道パターンだと思ってます。
そもそも『カラフル』という先行作品がありまして、
こちらは何度となく再演を繰り返しているんですが、
この作品から登場人物をまんま流用しております。
① 翻弄される主人公(千鶴)
② お調子者(舞子)
③ 真面目な優等生(サエ)
④ 不思議ちゃん(由利)
オトナの視点は
⑤ トラブルメーカー(小島さん)
がその役割を担っています。
これに⑥ 担任の入山先生が加わります。

この物語の原案というか元ネタというか源泉になっているのが、
その昔NHKのラジオドラマで聴いた『大誘拐』です。
ミヤコ蝶々さんが主役を演じてらっしゃいました。
物語の細部は今となってはよく憶えていないんですが、
誘拐犯グループと誘拐されたおばあちゃんとの立場が逆転するんです。
おばあちゃんが犯人たちに犯罪の手ほどきをするんですよ。
犯人を犯人に仕立てあげるって今考えると『熱海殺人事件』みたいですね。
『カラフル』では小島さんが「学校襲撃犯」らしい演技を要求されます。

ところで役名の千鶴・舞子・サエ・由利なんですがね。
いまだかつて「夏芙蓉でしょ?」って言われたことないんですが。
大丈夫なんですかね。

2020年3月16日月曜日

簡単な創作の方法

明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?
この戦国最大の謎に挑むのが拙作『ナイロン~本能寺の変・編~』です。
今年の大河ドラマは明智光秀が主役なんですってね。
あらまぁ偶然ですねぇ~。
ウチらが昨年末に上演した『ナイロン』が、
どこまで大河の内容を預言していたか、
それを検証するため毎週欠かさず視聴しています。

この『ナイロン』というのは、
容を限定して議することを略して言ったものです。
じゃあナイゲンじゃないのかってツッコミは野暮ですよ。
そもそもナイゲンのパクリなんですから!
自分で言うのもナンですが、話の構造はごくごく単純なんです。
登場するのは数名の高校生です。
彼らが本能寺の変をテーマにあれこれ論議します。
取り扱う人物(ここでは光秀)の心情に肉薄する手段として、
「演じる」ことを選ぶのです。

彼らには以下のような設定をしました。
① 翻弄される主人公(高山)
② 真面目な優等生(大垣)
③ お調子者(笠松)
④ 脳筋部活命(長森)
④ 情報弱者(鵜沼)
⑤ 飛び道具(中津川)

え~、実は似た構造の作品に『汚れつちまつた悲しみは……』があります。
2018年の秋季地区発表会で上演しました。
こちらは中原中也がテーマです。
メインは高校生3人と教育実習生です。
① 翻弄される主人公(千鶴)
② お調子者(舞子)
③ 真面目な優等生(サエ)
④ 進行役(由利先生)
そこに担任の先生が加わります。
オトナの視点を入れることで客観性が担保されます。
⑤ 助言者(小島先生)

こんなふうに役割が先行する台本は珍しいんですよ。
ほとんどの場合は「あてがき」してますから。
だからウチの稽古場では役者はおとなしくしていてはいけません。
自分はこんなことができる(あるいはできない)をアピールせにゃならんのです。
そこでは恥とか遠慮とかいう概念は邪魔なだけです。

ちなみに暴言を吐きますがね、
この「ナイロン」は台本が簡単に創作できちゃうんです。
なんてったってテーマを差し替えるだけで量産が可能なんですから。
素材は教科書に出てくる内容でいいんです。
ジャンルは歴史や文学がベストマッチ! 
歴史上の人物の波乱の生涯を描けばホラ完成。
小説の登場人物をエキセントリックに演じればアラ簡単。
だから、ウチらはこの創作方法をしばらく封印することにしました。
封印ということは、またいつかやるってことですけどね。

さてさて、『捨てられた島』に続いて、
新歓公演『13階の月光』もお蔵入りしちゃいました。
ってことは……次は春大ですね。
えっ! それホント?
劇団員の脳ミソを総動員して創作しましょう。
がんばっていきまっしょい!

2020年3月7日土曜日

創作№58『捨てられた島』

引き続き落語の話題で恐縮です。
桂文枝師匠が創作№300達成とのこと。
偉業達成、おめでとうございます。
師匠、どうせ見てないですけどね。

落語もこれでなかなか制約の多いジャンルですから、
その枠の中で300創るってのは並大抵のことじゃありません。
あえて「枠」と言わせてもらいます。
今回は感染拡大防止のため無観客で口演したということですが、
どう考えたってお客さんに聴いて欲しかったはずです。
前の高座名「三枝」にかけて、
3/4に発表したかったんですって。

新作落語の中にもいろいろありますな。
これは個人的な好みですが、
サラリーマンがネクタイを緩めながら、
「どうだい、一杯」なんてのは勘弁してほしい。
それじゃあ落語である必要がないと思うんですよ。
僕らの中で創作っていうものは、
ジャンルの持つ制約の中でやるものなんです。
着物姿で座布団に乗って、
手には扇子と手拭いだけ。
型を守ってその中でどれだけ遊べるか、
いかに新作と気付かせないように造り込むか、
なんじゃないんですかね。

演劇なんて落語に比べりゃ自由度が高い。
でも無観客はあり得ないと思ってます。
僕たちははじめ、観客として演劇に触れました。
そこで観た舞台に何かを感じたから、演じる側に回ったんです。
舞台の上から今度はお客さまに何かを感じてもらいたい。
所詮は素人ですからうまくいくはずないんですが。
この考えをおこがましいと一蹴しますか?

独り善がりの演技には辟易してるんです。
なぜならそれって観客をないがしろにしてるから。
板の上だけで感情の受け渡しをしているようでは、
それじゃ客席とのコミュニケーションが欠けてますからね。
だから内輪ネタが嫌いなんですよ。

自己啓発セミナーもどきのワークショップで、
演劇的手法を用いることを否定はしません。
それはそれでニーズがあるのも理解できてます。
別にいいんじゃないですかね。
ただしそれはそもそも演劇ではない。
それどころか表現ですらない。
受け手があってこその表現でしょ?
まぁ言葉の使い方の問題なんでしょうけどね。
でも僕らの演りたい演劇とは相容れません。
僕らの感覚では無観客芝居はあり得ないんです。
僕らの創る演劇はお客さまがいなければ成立しないんです。

ちなみに「新作」ってのは、
明治以降に新たに創作された落語のことです。

2020年2月13日木曜日

戯曲の梗概

しかし粗筋って難しいですな!


某大御所演出家がその著作の中で論じてますが、
「冒頭でその物語が何についての物語かが観客に提示されなければならない」
とかなんとか、文言はうろ覚えですが、おおむねこんなことを述べておられました。

はあっ!?

この考えには猛烈な違和感を覚えます。
謎で引っ張る物語だってあるじゃねえか!
何を見せられてるかわからないままに、不安なままに、
物語世界に没入していくのもアリじゃねえか!
そう信じて創作してきたつもりでございます。
だからね、粗筋で説明できるんなら、何十ページも台本書かないっつーのよ。


某有名舞台女優兼劇作家が雑誌のインタビューで述べておられますね。
「演劇という手法でしか表現できないものだけを物語りたい」
こちらには激しく同意!そうなんですよね。
あなたのその想いは、唄ったほうが伝わるかもしれない。
小説にしたほうが伝わるかもしれない。
演劇なんて効率の悪い表現形態をわざわざ採用する意味がある?
そう言ってやりたい芝居が無数に存在する。
登場人物がモノローグで説明しまくる芝居が存在する。
出てくるキャラがことごとくモノローグする。
主要人物でもないキャラまでこれでもかってぐらい。
いやぁ~それやっちゃダメでしょう?
ギャグとしてならわかるんだけど。
昔、マチャアキがコント番組の中でやってたネタですよ。

一言二言で伝えられるメッセージなら、
そのメッセージを印刷した紙をホワイエで配れ。
で、そのまま帰ってもらえ。