引き続き落語の話題で恐縮です。
桂文枝師匠が創作№300達成とのこと。
偉業達成、おめでとうございます。
師匠、どうせ見てないですけどね。
落語もこれでなかなか制約の多いジャンルですから、
その枠の中で300創るってのは並大抵のことじゃありません。
あえて「枠」と言わせてもらいます。
今回は感染拡大防止のため無観客で口演したということですが、
どう考えたってお客さんに聴いて欲しかったはずです。
前の高座名「三枝」にかけて、
3/4に発表したかったんですって。
新作落語の中にもいろいろありますな。
これは個人的な好みですが、
サラリーマンがネクタイを緩めながら、
「どうだい、一杯」なんてのは勘弁してほしい。
それじゃあ落語である必要がないと思うんですよ。
僕らの中で創作っていうものは、
ジャンルの持つ制約の中でやるものなんです。
着物姿で座布団に乗って、
手には扇子と手拭いだけ。
型を守ってその中でどれだけ遊べるか、
いかに新作と気付かせないように造り込むか、
なんじゃないんですかね。
演劇なんて落語に比べりゃ自由度が高い。
でも無観客はあり得ないと思ってます。
僕たちははじめ、観客として演劇に触れました。
そこで観た舞台に何かを感じたから、演じる側に回ったんです。
舞台の上から今度はお客さまに何かを感じてもらいたい。
所詮は素人ですからうまくいくはずないんですが。
この考えをおこがましいと一蹴しますか?
独り善がりの演技には辟易してるんです。
なぜならそれって観客をないがしろにしてるから。
板の上だけで感情の受け渡しをしているようでは、
それじゃ客席とのコミュニケーションが欠けてますからね。
だから内輪ネタが嫌いなんですよ。
自己啓発セミナーもどきのワークショップで、
演劇的手法を用いることを否定はしません。
それはそれでニーズがあるのも理解できてます。
別にいいんじゃないですかね。
ただしそれはそもそも演劇ではない。
それどころか表現ですらない。
受け手があってこその表現でしょ?
まぁ言葉の使い方の問題なんでしょうけどね。
でも僕らの演りたい演劇とは相容れません。
僕らの感覚では無観客芝居はあり得ないんです。
僕らの創る演劇はお客さまがいなければ成立しないんです。
ちなみに「新作」ってのは、
明治以降に新たに創作された落語のことです。
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