バイストン・ウェルの物語を、
覚えている者は幸せである。
心豊かであろうから。
「脱ドラマ演劇」について。
ドラマは演劇の可能性のひとつにすぎないと考えます。
可能性の選択肢でしかないにも関わらず、
私たちは「物語る」構造を盲目的に選んできました。
まだ観客であったころ、やはり舞台では「物語る」演劇が展開されてました。
見事にインプットされちゃいましたね。
演劇かくあるべしと思いこんじゃった。
最初に見たものを親だと認識しちゃった。
しかし、メディアが度外れて肥大化している現代において、
演劇とはドラマを語るものだ、と規定してしまうことは、
世界を狭くしてしまう。息苦しいものにしてしまう。
そこで「物語らない」演劇の手法を考えようと思います。
しかしそれは言葉を否定するってことじゃない。
むしろ言葉の持つパワーを今まで以上に重視します。
言葉が元来孕んでいる音楽性や身体性を信じます。
ところで、発表機会なんですが、
地区発表会というものが開催しにくくなっている状況で、
ここはやはり校内公演の充実を考えねばなりません。
しかし、窓を開放して換気しながらということだと、
暗転は演出として使えません。
それどころか、照明効果そのものがそもそも思うようには使えない。
お客さんだってこれまでのように詰め込むわけにはいきません。
場合によっては教室ではない場所での発表も視野に入れなければなりません。
そもそも教室をブラックアウトしたところで、
演劇的な意味からはそれって無ってことでして、
わざわざゼロにすることが果たして得策なのか、
よく考えなければならないと思いますね。
これも演劇には「完全なる闇」が必要だ、という思い込みなのでしょうね。
私たちはおかげさまで、
農村歌舞伎の舞台だったり、
かしわンの野外劇だったりを経験しています。
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