2018年12月26日水曜日

It's Showtime!

一音落とす者は去れ!
私たちはこの標語を、稽古場に掲げることにしました。
早口でも潰れない滑舌を獲得したいものです。

「たとえば、無闇にセリフに抑揚をつける人がいる。本人はまぁ感情表現のつもりなんでしょうけど、あんまり妙な抑揚をつけすぎて、自分の演技に酔っているだけに見えます。なぜそう見えるかって?抑揚の「揚」はまだいいとして、「抑」の部分のセリフが聞こえないことがあるんです。抑えるほどの声量じゃない役者さんが抑えたらいかんですよ。セリフに抑揚を付けたいなら声量を全体に大きくしなければいけませんよ。つまり自分の声が客席に届いているかどうかもわからないから、酔っているように見えるんです。

でもね、だからって叫べばいいってもんじゃあない。いや、むしろ逆なんです。叫んじゃダメなんです。叫ばなきゃ届かない声量なら、それって発声ができてないってことですよね。だったらノドを痛めるだけじゃないですか。自然に発してもきちんと響くような声を獲得してから舞台に立ちましょうよ。聞き苦しいだけですよ。叫ぶしか能がない役者は無能なんです(ん?論理が破綻しとるな)。ツッコミでもやたら叫ぶしかないのは稚拙というもんです。世の中にはいろんなツッコミのパターンがある。だったらそれを知るべきです。勉強不足を恥じるべきなんです。

考えてみればわかる。のべつに叫んでる人なんて日常に存在してるかってことです。文学賞の審査員の常套句に「この作品は、人間が描けていない」っていうのがあります。文芸の世界ではあたりまえなことなんです。現実世界に存在し得る人間を題材にしろってことなんです。人間を描くってことが文芸の至上命題なんです。これはどの作品にも共通して言えることなんです。それには人間が直接登場する必要はない。たとえば漱石の『吾輩は猫である』は、猫の視点から観た人間が描かれてる。たとえば芥川の『河童』は、河童の社会という架空の設定を通して、人間社会を辛辣に諷刺している。狼や兎や狸が活躍する童話は人間を動物になぞらえている。広い意味では演劇も文学です。明治期には文学も演劇も、美術と一括りにされていたんです。

ツッコミといえば、テレビのおかげで日本人の笑いの偏差値は下がってしまったんです。ある人気コメディアンが自分の冠番組の中で、何の訓練も受けていない素人さんを画面に登場させてしまった。そこから日本の笑芸は崩壊していったように思うんです。テレビのドキュメント性は容赦なく素人さんのおたおたする惨めな姿を映し出しました。はじめは確かにみっともなかったんです。お茶の間に広がったのは「蔑みの笑い」だったんです。かなりゲスい笑いだったんです。でも視聴者もみんなそれをわかってた。わかったうえで楽しんでたんです。そのはずだったんです。いつからなんでしょう、気がつけば素人芸でも、部室芸でも、テレビの中に存在することが許されるようになっていた。スタッフの内輪ネタを公共の電波を使って垂れ流し続けても、誰も文句を言わなくなった。本当の笑いはどこに行ったんでしょう。本当の笑いは寄席にでも行かなければお目にかかれなくなってしまった。同じような現象は歌謡界でも起きました。アイドルと呼ばれる「唄うタレント」がテレビの歌番組を席巻し、本当の歌い手がいなくなった。歌姫なんて呼ばれてる人もいますが、あんなの美空ひばりの足元にも及ばない。いいえ、アイドルすら放課後の部活動になり、黄色い声を張り上げた小娘が腰をくねらせ、そんなのでも金が稼げるようになってしまった。そんな世界が健全だと言えるんでしょうかッ!!!」

以上のセリフを高速でしゃべくり倒しましょう。


まぁ冗談はさておき、
その実、ホンキだったりして、
以前も言いましたが、
演劇は初めて観るよって人だって、
客席にはいらっしゃるんですよね。
その方に、
「演劇ってこんなもんか」
って言わせたらいけないと思うんです。
「演劇ってスゲエじゃん」
って言わせたいだけなんです。
それって思い上がりですかね?
劇人なら当然の意識だと思いますけど。
いいですよ、それウチがやります。
演劇の真似事をするんなら責任があるよ、
ってだけのことなんです。

今日から稽古はOFF。
世間並みに冬休みですね。
そうそう「ういろううり」は冬季休業中の課題ですよ。
年末年始は演芸番組が目白押しです。
劇団員の皆さん、さぁ、お勉強の時間だ。
ドライバーオ~ン!
3・2・1!ショウターイム!
がんばっていきまっしょい!

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