2018年12月28日金曜日

テーマは「愛」です

年の瀬だす!
景色が寒々しいことったらないです。
歳末寒波が襲来してるらしいですけど、
カンパは自転車だけにしてもらいたいものです。
寒すぎ。風、強すぎ。
涙目。



さて、テーマをどのように伝えるかって話です。
どう料理するかっていう、まぁ調理方法ですね。

テーマは『愛』です、みたいな、
それ言っちゃったら身も蓋もないでショ、っていう。
言葉で伝えちゃっていいなら「作品」を創る意味はない。
作品を造り込んで中に忍ばせるものだと思うんです。
生のまま提供しちゃダメだと思うんです。
お刺身にしてあれば包丁入れてる分まだマシな方で、
生きた魚のまんまお膳に出されても、ちょっと食べられないですよ~。

いきなり極論ですがね、テーマってそもそも必要なのでしょうかね。
必要だとして、その解釈はお客様に委ねられているのではないんですかね?

あとから言いわけみたいに「あれはあーで、これはこーで」などと、
本来は禁じ手ですよ。御法度だと思うんですよ。
士道ならぬ劇人道に背くまじき事ですよ。切腹もんですよ。
私たちにとっては舞台で表現されたものがすべてです。
まして、作中人物に語らせちゃったらギャグです、それ。

ウチの場合は、だいたいテーマからは創作しないのです。
登場人物が作者の言いたいことを伝えるために奉仕するというのではない。
「この作品のテーマはなんですか?」って、
アンケートに書いてくださる方がいらっしゃいますけど、
演ってる自分たちもよくわかってないことが多いんです、スミマセン。

ただ、集団的無意識というのはやはりありまして、
自分たちで創作した台本のはずなんですが、
稽古しているうちにハタと気付くことはあります。
テーマは登場人物に教えられるものなんです。

ハナシを元に戻します。
あなたは何か言いたいことがあるんですよね。
世の中に向けて自分の考えを問うてみたい。
表現欲求があふれてとどまることを知らない。
で、それを演劇という手段を用いて伝えたい。

だったら、生身の役者が舞台に上がることの意味を、
考えなけりゃいけないって思うんですよ。
他にも表現手段はいくらでもあるんですからね。
ただ伝えたいというだけなら、なんで演劇なんですか?
小説でも、漫画でも、映画でもいいじゃないですか。
いっそ、伝えたいことを世界の中心で叫べばいいじゃないですか!
役者が頭のテッペンから足のツマサキまで衆目にさらして、
それに耐え得るための訓練に何日も費やして、
そんなにしてまで演劇である必要はないわけですよ。

テーマはそれとなく伝わるぐらいがちょうどいいと思うんですよ。
作中で登場人物が作者の「思想」を代弁するのって、
ダッサいと思いませんか?押し付けがましいというか。
そこは観客が受け取るから、受け取れるから、受け取りたいから。
生の魚をお膳に乗せるのって、観客をバカにしてると思うんです。



2018年12月26日水曜日

It's Showtime!

一音落とす者は去れ!
私たちはこの標語を、稽古場に掲げることにしました。
早口でも潰れない滑舌を獲得したいものです。

「たとえば、無闇にセリフに抑揚をつける人がいる。本人はまぁ感情表現のつもりなんでしょうけど、あんまり妙な抑揚をつけすぎて、自分の演技に酔っているだけに見えます。なぜそう見えるかって?抑揚の「揚」はまだいいとして、「抑」の部分のセリフが聞こえないことがあるんです。抑えるほどの声量じゃない役者さんが抑えたらいかんですよ。セリフに抑揚を付けたいなら声量を全体に大きくしなければいけませんよ。つまり自分の声が客席に届いているかどうかもわからないから、酔っているように見えるんです。

でもね、だからって叫べばいいってもんじゃあない。いや、むしろ逆なんです。叫んじゃダメなんです。叫ばなきゃ届かない声量なら、それって発声ができてないってことですよね。だったらノドを痛めるだけじゃないですか。自然に発してもきちんと響くような声を獲得してから舞台に立ちましょうよ。聞き苦しいだけですよ。叫ぶしか能がない役者は無能なんです(ん?論理が破綻しとるな)。ツッコミでもやたら叫ぶしかないのは稚拙というもんです。世の中にはいろんなツッコミのパターンがある。だったらそれを知るべきです。勉強不足を恥じるべきなんです。

考えてみればわかる。のべつに叫んでる人なんて日常に存在してるかってことです。文学賞の審査員の常套句に「この作品は、人間が描けていない」っていうのがあります。文芸の世界ではあたりまえなことなんです。現実世界に存在し得る人間を題材にしろってことなんです。人間を描くってことが文芸の至上命題なんです。これはどの作品にも共通して言えることなんです。それには人間が直接登場する必要はない。たとえば漱石の『吾輩は猫である』は、猫の視点から観た人間が描かれてる。たとえば芥川の『河童』は、河童の社会という架空の設定を通して、人間社会を辛辣に諷刺している。狼や兎や狸が活躍する童話は人間を動物になぞらえている。広い意味では演劇も文学です。明治期には文学も演劇も、美術と一括りにされていたんです。

ツッコミといえば、テレビのおかげで日本人の笑いの偏差値は下がってしまったんです。ある人気コメディアンが自分の冠番組の中で、何の訓練も受けていない素人さんを画面に登場させてしまった。そこから日本の笑芸は崩壊していったように思うんです。テレビのドキュメント性は容赦なく素人さんのおたおたする惨めな姿を映し出しました。はじめは確かにみっともなかったんです。お茶の間に広がったのは「蔑みの笑い」だったんです。かなりゲスい笑いだったんです。でも視聴者もみんなそれをわかってた。わかったうえで楽しんでたんです。そのはずだったんです。いつからなんでしょう、気がつけば素人芸でも、部室芸でも、テレビの中に存在することが許されるようになっていた。スタッフの内輪ネタを公共の電波を使って垂れ流し続けても、誰も文句を言わなくなった。本当の笑いはどこに行ったんでしょう。本当の笑いは寄席にでも行かなければお目にかかれなくなってしまった。同じような現象は歌謡界でも起きました。アイドルと呼ばれる「唄うタレント」がテレビの歌番組を席巻し、本当の歌い手がいなくなった。歌姫なんて呼ばれてる人もいますが、あんなの美空ひばりの足元にも及ばない。いいえ、アイドルすら放課後の部活動になり、黄色い声を張り上げた小娘が腰をくねらせ、そんなのでも金が稼げるようになってしまった。そんな世界が健全だと言えるんでしょうかッ!!!」

以上のセリフを高速でしゃべくり倒しましょう。


まぁ冗談はさておき、
その実、ホンキだったりして、
以前も言いましたが、
演劇は初めて観るよって人だって、
客席にはいらっしゃるんですよね。
その方に、
「演劇ってこんなもんか」
って言わせたらいけないと思うんです。
「演劇ってスゲエじゃん」
って言わせたいだけなんです。
それって思い上がりですかね?
劇人なら当然の意識だと思いますけど。
いいですよ、それウチがやります。
演劇の真似事をするんなら責任があるよ、
ってだけのことなんです。

今日から稽古はOFF。
世間並みに冬休みですね。
そうそう「ういろううり」は冬季休業中の課題ですよ。
年末年始は演芸番組が目白押しです。
劇団員の皆さん、さぁ、お勉強の時間だ。
ドライバーオ~ン!
3・2・1!ショウターイム!
がんばっていきまっしょい!

2018年12月25日火曜日

そして茶話会でした

「大木良」という役名が
「大根」に由来していることに
誰も気付いていない。
劇団員ですら忘れているという事実。

今日は終業式でした。
大掃除のあと体育館に全員集合です。
秋大はとっくに終わってますが、
2学期にいただいた賞状ですので、
この終業式で全校に披露です。
部長以下、副部長と合わせて3名が登壇しました。

画像は本校のHPから引っ張りました。
創作脚本賞は何度目でしょうか。
演技賞は南原千鶴/中原中也役のこまちです。
優秀賞はブロック第2位の成績です。
でも1位を獲らなきゃ県大会に行けないんです。
そこが他の部活と違うトコなんですよね。
ここだけのハナシ、簡単に県に行けちゃう部もあるじゃないですか。
たぶん壁の分厚さは最も苛烈なんです。


午後から稽古場で茶話会です。
頂戴したお菓子をいただきながら、
それでも反省会ですからキッチリやります。
慣例に従い3段階に分けて各々反省を述べていきます。
まず、リハを含めて本番前日までの稽古全般にわたって。
次に、本番当日。舞台係などの仕事も含めます。
そして最後に、後片付け。これはバラシから帰着後の倉庫整理まで。

まず、全体的な総括をするとですね、
今回のHTFでやっぱおもろかったのは、
リハを見せていただいた学校さんが、
本番でどうなるのかなって部分ですね。
制作の過程をチョイ見せしてもらってるから、
本番の楽しみも倍加するってもんです。
決して意地悪な意味じゃありませんよ。
いい役者さんってやっぱり周りが見えてるなってハナシです。
その役として舞台に立つことの重要性を改めて教えられました。

さて、自分たちの反省。
発声って大事だなぁ~って再確認。
セリフっていうものは聞きとれてナンボですよ。
意味を伝えることができなけりゃアカンのですよ。
感情も大切だけど、まず意味を伝えることなんです。
一音落とす者は去れ!ですよ。
あ、ただし感情を伝えるってんで妙なテクニックに走っちゃ駄目。
基本ができてこその技巧ですからね!
忘れないでね!


HTFって創作脚本の祭典なんですよね。
創作って難しいんだなぁ~って思う事しきり。
「演劇にだってリアリティは必要です!」
柏東高校演劇部の南原千鶴さんが力説してます。
私たちは彼女のこの説に激しく同意してまして、
静かなリアリズム重視の演劇なんてくそくらえだと思ってますが、
おっと、敵を増やしてしまいましたか?でもホンネなんです。
リアリティっつーのは「ホントっぽさ」ですよね、
お客さまに「なんか現実にあるかもね」と感じていただくことが重要なんです。
だから、なんですよね~。ごめんなさいね。
心理の流れに連続性がない、
ストーリー上の整合性もない、
という台本というか役者の演技にブチあたると、
そもそも台本の不備に息が詰まっちゃうんです。
台本の都合が人物の感情に優先してちゃダメなんです。
作者の世界観を描くのが目的であってはダメなんです。
たとえ厨二的展開の台本だとしてもね。
まさか、あれは「人外」だから人間の尺度では測れないのだ!
とでもおっしゃるつもり?
たとえ魔王でも、たとえ動物でもそこは譲れませんよ。
あらゆる作品は人間を描くことを至上命題としているのだから。

おっと、おしゃべりが過ぎました。
もって他山の石とすべし、でしたね。
ほのぼの日常系だっていいじゃないか、
だって描くのは人間だもの。
ちなみに今回はシットコムっぽいのを意識したんですが、
アンケにはアンジャッシュみたいなどと書かれてましたですね。
どっちか言ったら「やっぱり猫が好き」を狙ったんですが……。
う~ん、まだまだですな!
がんばっていきまっしょい!

2018年12月24日月曜日

本番でした

年末合同公演
Half Time Festival 2018
12/24(Mon)のきょう、
いよいよ開幕です。

会館の外は冷たい風が吹いていて、
めちゃんこ寒いです。

↑コホミンホールの緞帳です。
湖北の地元のお祭りが図案だとか。

冒頭からモノローグ。
キャラメルボックスを意識しています。
このあとキャスト全員によるダンスです(嘘)。

人物を配置するときの基本ですが、
持っている情報の量と質に差をつけます。
今回はこの「差」だけで物語を転がします。

個性的な人物をムリして登場させなくたって、
ドラマは成り立つんだということです。

人物の感情を仕種で観せて行きます。
決してセリフで伝えることはしません。
ここ重要!(テストに出ます)
仕種が細かいと見えないから大きな動作で伝えます。

僕たちは演劇のどこが気に入ってるかって、
人間が生身で演じるってとこなんですよね。
むしろアニメキャラもどきなんぞ不要なんです。
そっちはそっちに任せとけって感じなんです。


今回の芝居の本編とはまったくの無関係。
ナンセンスを一身に引き受けたパートです。

「潤色(殉職)でも脚色でもねえ。
まして既成なんかにとらわれてちゃいけねえ。
創作だ!!!」

沼南高柳高校のみなさん!ご協力に感謝です。
音響はフォントでした。
悪魔のようなオペでしたね~(怖)

さて、物語は後半に突入。

おばちゃんがダルマを持ってきます。
「人生は七転び八起き。大木くんの人生はまだこれからよ」
「でも、このダルマ、起きませんよ」
「…………」

雪姉ちゃんの誤解が解けます。
三人は血を分けた姉弟妹の関係でした。
かのように思えました。

大木くんはあのあと、
本当のお父さんと逢えたのでしょうか。

最後に「メリー・クリスマス!」


……ここで終わりゃいいんでしょうけど、
普通はここで緞帳なんでしょうけど、
解決してない問題がありました!
急げ!舞姉ちゃん!!!

さて、ウチの学校は明日が終業式です。
すっかり忘れ去られていますが、
秋大で獲得した賞状3枚を全校生徒の前で伝達してもらいます。
優秀賞がブロック2位だってこと、伝わりますかね???

午後からHTFの茶話会です。
PDCAサイクルを上手に回すためには、
キッチリとした反省が必要です。
がんばっていきまっしょい!