2019年6月26日水曜日

脚本を創作するうえで陥りやすい過ちがあってですね

泣いている人がいます。
仮にAさんとします。
別に怒っててもいいんですけど。
何らかの感情を抱いているAがいます。

そのAを見ている人がいます。
この人はBさんです。
BはAが泣く理由を知らされていません。
言葉を発することなくAは泣くだけです。

さて、BはAを見ているだけで、
涙の理由を諒解することができるでしょうか?
これ多分、ノーマルタイプ同士なら無理ですよね。

だからロゴスが必要になるわけです。

あ、そうそう。
そうは言ってもですね、Aが泣いている理由を、
A自身が説明しちゃダメなんです。
「ボクは今、これこれで悲しいんだよ」
なんて説明ゼリフは書いちゃいけないんです。
だってAは嘘をつくかも知れない。
せいぜいCという三番目の登場人物が、
「どうやらAはこれこれで悲しいらしい」
というのが関の山なんです。

話が逸れました。
Aがただ泣いてるだけじゃ、
その理由(背景)はBには伝わらない。
つまり、Aという役者がただ泣くだけでは、
客席のBには物語は理解されないんです。
伝えるための何かしらの作為が必要になります。
だから、役者が心を動かすだけでは、
お客さまは納得しません。伝わりません。
大事なことなので繰り返します。
役者が感情を動かすだけじゃ芝居は成立しないんです。

写真は本文とは関係ありません。

感情を重視する演技論があることを知っています。
自己の解放が大切だってこともわかります。
人の気持ちを動かすことができるのは、
人の気持ちだけだなんて言う人を否定はしません。
でもそもそも基礎がないところで、
感情だ、気持ちだ、リアリズムだと騒いでも、
客席にはそんなもん届かないんですよ。

まず俳優としての基礎「技」をある程度は身につけて、
次のステップとして感情「心」を動かす練習をする。
あるいは「技」と「心」とを同時進行で磨く。
そういう手順を踏まなきゃムリですよ。
ヘタクソな(というと語弊があるけど)役者に限って、
この「技」をすっ飛ばして「心」を妄信する。
妄信、まさに似非宗教ですよ。
信仰だから科学的根拠なんて不必要なんです。

蚊の鳴くような声しか出せない、
立ち姿だってみっともない、
視線も泳ぎっぱなしの役者(?)が、
たとえどんなに素敵な感情を持っていても、
伝える技術がなかったら芝居にゃならんのです。
ただのナルシスト演技なんです。

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