泣いている人がいます。
仮にAさんとします。
別に怒っててもいいんですけど。
何らかの感情を抱いているAがいます。
そのAを見ている人がいます。
この人はBさんです。
BはAが泣く理由を知らされていません。
言葉を発することなくAは泣くだけです。
さて、BはAを見ているだけで、
涙の理由を諒解することができるでしょうか?
これ多分、ノーマルタイプ同士なら無理ですよね。
だからロゴスが必要になるわけです。
あ、そうそう。
そうは言ってもですね、Aが泣いている理由を、
A自身が説明しちゃダメなんです。
「ボクは今、これこれで悲しいんだよ」
なんて説明ゼリフは書いちゃいけないんです。
だってAは嘘をつくかも知れない。
せいぜいCという三番目の登場人物が、
「どうやらAはこれこれで悲しいらしい」
というのが関の山なんです。
話が逸れました。
Aがただ泣いてるだけじゃ、
その理由(背景)はBには伝わらない。
つまり、Aという役者がただ泣くだけでは、
客席のBには物語は理解されないんです。
伝えるための何かしらの作為が必要になります。
だから、役者が心を動かすだけでは、
お客さまは納得しません。伝わりません。
大事なことなので繰り返します。
役者が感情を動かすだけじゃ芝居は成立しないんです。
写真は本文とは関係ありません。
感情を重視する演技論があることを知っています。
自己の解放が大切だってこともわかります。
人の気持ちを動かすことができるのは、
人の気持ちだけだなんて言う人を否定はしません。
でもそもそも基礎がないところで、
感情だ、気持ちだ、リアリズムだと騒いでも、
客席にはそんなもん届かないんですよ。
まず俳優としての基礎「技」をある程度は身につけて、
次のステップとして感情「心」を動かす練習をする。
あるいは「技」と「心」とを同時進行で磨く。
そういう手順を踏まなきゃムリですよ。
ヘタクソな(というと語弊があるけど)役者に限って、
この「技」をすっ飛ばして「心」を妄信する。
妄信、まさに似非宗教ですよ。
信仰だから科学的根拠なんて不必要なんです。
蚊の鳴くような声しか出せない、
立ち姿だってみっともない、
視線も泳ぎっぱなしの役者(?)が、
たとえどんなに素敵な感情を持っていても、
伝える技術がなかったら芝居にゃならんのです。
ただのナルシスト演技なんです。
0 件のコメント:
コメントを投稿