2018年9月13日木曜日

演劇界のあしたはどっちだ!


ある立場を批判するなり、擁護するなりしてみる。そのときに自分自身の演劇観が問われてしまいます。ちょっと一考察。

アンケートに「ERAの芝居はわからない」ってよく書かれるんです。一部の人にはバカウケなんですがね。他校の人から「こういうのをホントはやりたかったんだよ」なんて言ってもらえることもあります。でも、わかる人だけにわかればいいなんて思ってません。こういう客層に訴求しようだの、専門審査員に媚びちゃおうだの、そんなことを考えられるほど器用じゃないので。たぶん今後もそんなことはできないと思います。
ではなぜ、ERAの芝居は万人受けしないんでしょうか。
もしかしたら、「演劇」というものがこの国ではまだまだマイナーだからじゃないでしょうか。すみませんエラソーな口を叩きます。ズバリ軽視されていると言ってもいい。演じることが非日常なのはともかくとして、芝居を見るということも非日常なんですね。あたりまえに街角に演劇があふれているという環境では絶対にこの国はない。だから日本人にはそもそも演劇の見方が根付いていないんです。それは劇場でのマナーを含めてのことです。
役者の感情表現でいえば、普通は「私は悲しい、どうしたらいいんだろう?」というセリフは笑いながら言ったほうが感動するんです。異化効果というやつです。こういう単純なことですら演技の持ち駒として使ったこともないような人が舞台に立っているのが現状なんです。でもそういったことは淘汰されるべきなんです。役者を育ててくれるのは観客の目なのに、その観客のほとんどは演劇を見慣れていないんです。観劇するのに予備知識が少しぐらいは必要であると私たちは考えます。演劇部員だって他校の芝居を観る時には観客の側に回るわけですから、ここらへんは背筋がシャンとする部分ではあります。

それでも観劇後にすごい衝撃を受けることはある。直観的に本能的に理屈じゃない部分で体が反応するんです。戯曲の持つメッセージ以前に、いま自分が体験したことに圧倒されるんです。それは「わかる」という体験です。無知であるバカであるってこととは無関係に、「わかる」っていうことは可能なんです。音楽や照明や、舞台美術や役者の動きとか、そういうあらゆるものコミコミで、「わかる」可能性はあると思います。そこに期待していくしかないんじゃないか。そんなふうに考えています。

0 件のコメント: