どんな作品にも作者の思想なり主張なり思い入れといったものが籠められている。もちろん創作の経緯や作者を取り巻く事情なんか知らなくても、その作品を純粋に楽しめば良いのだろう。そしてそれが普通のことなのだろう。しかし生理的に嫌悪を感じるのだ。これはハロウィンが日本で流行してしまったことに眉を顰めるのと同じ理屈だ。ハロウィンの故事来歴など関係ない表面だけのマネっこバカ騒ぎに首を傾げる人は多いんじゃないか。ちびっこのど自慢という企画が昔あったが、歌の心を解ろうはずもない年端も行かぬ子どもが演歌を歌うのもそれに似ている。その子どもの後ろに親の影がチラついて見えることも大人のエゴが透けて見えてきて吐き気がする。
作者の思いなどお構いなしに上っ面だけなぞって事足れりとする。あまつさえそれを自分たちの文化でございと言って涼しい顔をしている。誰かに押し付けられたものなのにそいつを後生大事にしている。それが我慢できない。
教育の力の恐ろしさはそれが上っ面の文化であるにも関わらず教師という権威から発信されると正義として罷り通ってしまうことだ。盲目的に信じ込まされてしまうことだ。教師たちが先導すれば子どもというものは疑問に感じることなく唄わされ踊らされ刷り込まれてしまう。唄い踊る純粋な子どもたちは見ていて哀れでしかない。
すべて嘘っぱちであることを承知の上でそれを一緒に楽しんでしまうことができたならこんなにしんどくないのだろう。そういったことを感じなければきっと幸福なんだろう。でもダメなんである。生理的にムリなんである。どうせなにかやるなら自分たちなりにアレンジして少しでも自分たちの色を重ねていかなければ、ただの劣化コピーで終わってしまうじゃないか。だってどんなものでもオリジナルに敵うわけがないから。そういうことに対して恐怖を感じるのだ。コピーにコピーを重ねたらどんどん画像が不鮮明になっていくだけだ。
そういった事態を逃れるための対抗策は、ただ心を空しくしてオリジナルを思い出すことしかないのではないか。そしてそういう世の中の仕組みに対して少しは疑問の眼を向けてみることなんじゃないか。演劇を志す者であるならなおさらそういうことにはもっと自覚的になっていいんじゃないかなって思う。
BGM:Harumi Miyako『Oyako Sandai Chibawodori』


