2018年1月11日木曜日

凱風快晴

季節風が強く吹くと、筑波山が綺麗に見えます。
街の汚れた空気を吹き飛ばしてくれるからでしょう。
↓は柏キャンパス2号館からの眺望です。
手賀沼の対岸に見えるのは、我孫子の街並みです。
あの白樺派の我孫子です。
その奥にうっすら見えるのが筑波山(877m)です。


「見えているものがすべて真実とは限らない」
人間は誰でも主観でしか事物を見ることができません。
純粋な客観は客体にしかできないものです。
良くも悪くも主体のバイアスがかからないものなんてありません。
明治の初めに正岡子規が短歌の革新を目指し「写生」の説を唱えました。
逆に言えば、それほど客観的な視座というものは得にくいということなんですね。

人間の目が身体を離れて自分を外から見るなんてことできるんでしょうか。
答えは「可也」です。
私たちは、舞台の上だったら何だってできる。どこまでだって行ける。
劇団ERAのスローガンは"Limit Break"(限界突破)です。
チームウェアの背中には「劇人(げきんちゅ)」の2文字が入りますが、
*「劇人」は、2002年の劇団旗揚げ当時から用いている登録商標のようなもんです。
この"Limit Break"もずっと背負ってきている大切なことばです。

究極の主体による客観的視点こそ演劇には必須。
きょうはバレンタイン公演のためのネタ出しをします。
がんばっていきまっしょい!

2018年1月10日水曜日

舞台を作る

きょうの活動は「舞台を作る」です。
いつものような客席配置ではありません。
客席の中を舞台が横切るような。いや、舞台を客席が挟むような。
一方向から舞台を見るのではなく、四方八方から見られるような。
こういうのを貫通舞台と申します。

役者はいつも以上に緊張するでしょうね。
あらゆる方向から観客の視線に晒されるんですから。
いまからわくわくしますね。

実は反対に、お客様にもちょっとした試練が用意されております。
舞台を挟んで反対側に、自分を見る(?)お客さんの顔が見えるんです。
これ、見る側と見られる側との境界線を曖昧にする演劇実験です。

お客様を巻き込む芝居なら、4地区ではウチらが先駆けです。
でも暴力的に無理矢理に参加させるようなマネはしたことがありません。
今回のお題は「見えるものがすべて真実とは限らない」ということ。
これをお客様と一緒に、ちょっと形而上学的に考察してみます。
そのための舞台装置であり、物語と密接に結び付いた客席レイアウトなんです。

地区発表会のように大きなホールでの芝居もいいですが、
校内公演なら、舞台の置き方から設計できるのがいいですね。
これからこの舞台を使い、物語を紡いでいきます。
舞台イメージから創作したっていいじゃないか。
劇団だもの。
あしたもがんばっていきまっしょい!



2018年1月9日火曜日

年の初めの


靖国神社です。二松学舎大学の九段校舎はこの近くです。
比較的穏やかな新年を迎えることができました。

こちらは浅草寺です。にぎわってます。

さて、9日は3学期の始業式でした。
きょうの放課後は久しぶりの部活動です。
年末に開催されました4地区合同公演の反省会です。
私たちはこの反省会を「茶話会」と呼んでいます。
文字通り、お茶を飲みながら頂き物のお菓子を賞玩します。

アンケートに目を通します。
〇傘がきれいだった。
〇太鼓や拍子木の効果音がすごかった。
〇演技がすばらしかった。
〇全体のレベルが高い。
などなど、、、。
おおむね好評をいただくことができました。

残念なことに、今回は「体調管理」の反省が出ました。
OGのお姉さま方には感謝の一言です。
明日以降は次回公演についても考えなけりゃいけません。
がんばっていきまっしょい!

2017年12月29日金曜日

自分たちの文化は

他人の創作した作品(世の中ほとんどそうだけど)を享受する側のあり方は様々あっていい。これを一元化しようとする行為はファシズムだと言える。だから強制的に特定の作品を押し付けられることには直感的に違和を覚える。理由をすぐには言葉にすることができなかったけれど。夏休みの課題図書なんて大ッ嫌いだったっけ。他人の手垢がべっとり付いたいわゆる名作なんて呼ばれてる文学作品なんてお呼びじゃなかった。その感覚は劇団ERAが創作脚本しか演らない理由と根幹の部分で繋がっているように思える。

どんな作品にも作者の思想なり主張なり思い入れといったものが籠められている。もちろん創作の経緯や作者を取り巻く事情なんか知らなくても、その作品を純粋に楽しめば良いのだろう。そしてそれが普通のことなのだろう。しかし生理的に嫌悪を感じるのだ。これはハロウィンが日本で流行してしまったことに眉を顰めるのと同じ理屈だ。ハロウィンの故事来歴など関係ない表面だけのマネっこバカ騒ぎに首を傾げる人は多いんじゃないか。ちびっこのど自慢という企画が昔あったが、歌の心を解ろうはずもない年端も行かぬ子どもが演歌を歌うのもそれに似ている。その子どもの後ろに親の影がチラついて見えることも大人のエゴが透けて見えてきて吐き気がする。
作者の思いなどお構いなしに上っ面だけなぞって事足れりとする。あまつさえそれを自分たちの文化でございと言って涼しい顔をしている。誰かに押し付けられたものなのにそいつを後生大事にしている。それが我慢できない。

教育の力の恐ろしさはそれが上っ面の文化であるにも関わらず教師という権威から発信されると正義として罷り通ってしまうことだ。盲目的に信じ込まされてしまうことだ。教師たちが先導すれば子どもというものは疑問に感じることなく唄わされ踊らされ刷り込まれてしまう。唄い踊る純粋な子どもたちは見ていて哀れでしかない。
すべて嘘っぱちであることを承知の上でそれを一緒に楽しんでしまうことができたならこんなにしんどくないのだろう。そういったことを感じなければきっと幸福なんだろう。でもダメなんである。生理的にムリなんである。どうせなにかやるなら自分たちなりにアレンジして少しでも自分たちの色を重ねていかなければ、ただの劣化コピーで終わってしまうじゃないか。だってどんなものでもオリジナルに敵うわけがないから。そういうことに対して恐怖を感じるのだ。コピーにコピーを重ねたらどんどん画像が不鮮明になっていくだけだ。

そういった事態を逃れるための対抗策は、ただ心を空しくしてオリジナルを思い出すことしかないのではないか。そしてそういう世の中の仕組みに対して少しは疑問の眼を向けてみることなんじゃないか。演劇を志す者であるならなおさらそういうことにはもっと自覚的になっていいんじゃないかなって思う。

BGM:Harumi Miyako『Oyako Sandai Chibawodori』