弊社の社員に告ぐ。
どんな表現にも“文法”があります。 演劇にも、SFにも、音楽にも、絵画にも、それぞれの世界を成立させるための最低限のルールがあります。 これは縛りではなく、作品を支える“土台”です。
たとえばSFというジャンルは、現実の科学や技術を土台にして「あり得る世界」を描きます。だからこそ、設定がリアルに寄れば寄るほど、ほんの小さな破綻が作品全体を壊してしまいます。破綻したその瞬間、読者は世界から弾き出されます。 「この作者は、世界を作る覚悟がないんだな」と感じてしまうからです。
これは、演劇でもまったく同じです。 演劇は、鍛えられた身体が空間の中で意味を発し、観客との関係の中で世界を立ち上げる表現です。 身体が鍛えられていなければ、動きは意味を持ちません。呼吸が浅ければ、声は届きません。視線が定まらなければ、世界は立ち上がりません。身体が語らなければ、どれほど立派なテーマを掲げても、観客には届かないのです。
また、プロの作品を表面的に真似ても、それは演劇にはなりません。 プロの身体は、長い訓練と積み重ねの上に成立しています。その表層だけをコピーしても、観客には“空っぽ”だとすぐに見抜かれます。かといって、オリジナルなら何でも良いわけでもありません。自分の感情をただぶつけるだけの作品は、観客との関係を築くことを放棄しており、表現としての価値を持ちません。
表現には、守るべき“本当”があります。 その“本当”を積み上げた上で初めて、嘘や創造が成立します。 基礎を軽視したまま作品をつくれば、どれほど熱量があっても、どれほど個人的な思いが込められていても、観客には届きません。それは、ただの自己表出で終わってしまいます。
だからこそ、君たちには身体を鍛えてほしいのです。 空間を支配してほしいのです。観客との関係を意識してほしいのです。 それが演劇の文法であり、演劇が演劇であり続けるための最低限の基礎だからです。
そして今、その基礎が軽視される風潮が広がっていることに、私は強い危機感を覚えています。 身体性を欠いた表現が増え、文法を無視した作品が増え、観客を置き去りにしたまま“演劇”を名乗る例も少なくありません。このままでは、演劇という表現そのものが形骸化してしまいます。
だからこそ、君たちには知っていてほしい。 演劇は、身体が語り、空間が立ち上がり、観客とともに世界をつくる芸術だということを。 そのために必要な基礎を、どうか大切にしてほしいのです。
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