2026年6月21日日曜日

文法って大事

弊社の社員に告ぐ。

どんな表現にも“文法”があります。 演劇にも、SFにも、音楽にも、絵画にも、それぞれの世界を成立させるための最低限のルールがあります。 これは縛りではなく、作品を支える“土台”です。

たとえばSFというジャンルは、現実の科学や技術を土台にして「あり得る世界」を描きます。だからこそ、設定がリアルに寄れば寄るほど、ほんの小さな破綻が作品全体を壊してしまいます。破綻したその瞬間、読者は世界から弾き出されます。 「この作者は、世界を作る覚悟がないんだな」と感じてしまうからです。

これは、演劇でもまったく同じです。 演劇は、鍛えられた身体が空間の中で意味を発し、観客との関係の中で世界を立ち上げる表現です。 身体が鍛えられていなければ、動きは意味を持ちません。呼吸が浅ければ、声は届きません。視線が定まらなければ、世界は立ち上がりません。身体が語らなければ、どれほど立派なテーマを掲げても、観客には届かないのです。

また、プロの作品を表面的に真似ても、それは演劇にはなりません。 プロの身体は、長い訓練と積み重ねの上に成立しています。その表層だけをコピーしても、観客には“空っぽ”だとすぐに見抜かれます。かといって、オリジナルなら何でも良いわけでもありません。自分の感情をただぶつけるだけの作品は、観客との関係を築くことを放棄しており、表現としての価値を持ちません。

表現には、守るべき“本当”があります。 その“本当”を積み上げた上で初めて、嘘や創造が成立します。 基礎を軽視したまま作品をつくれば、どれほど熱量があっても、どれほど個人的な思いが込められていても、観客には届きません。それは、ただの自己表出で終わってしまいます。

だからこそ、君たちには身体を鍛えてほしいのです。 空間を支配してほしいのです。観客との関係を意識してほしいのです。 それが演劇の文法であり、演劇が演劇であり続けるための最低限の基礎だからです。

そして今、その基礎が軽視される風潮が広がっていることに、私は強い危機感を覚えています。 身体性を欠いた表現が増え、文法を無視した作品が増え、観客を置き去りにしたまま“演劇”を名乗る例も少なくありません。このままでは、演劇という表現そのものが形骸化してしまいます。

だからこそ、君たちには知っていてほしい。 演劇は、身体が語り、空間が立ち上がり、観客とともに世界をつくる芸術だということを。 そのために必要な基礎を、どうか大切にしてほしいのです。

2026年6月4日木曜日

『夏が追いつく前に』上演意図

 エンターテインメントや伝統芸能は、新型コロナウイルス流行下において「不要不急」と位置付けられ、その価値が厳しく問い直された。しかし本当にそれらは、人間にとって不要なものなのだろうか。確かに、生物としての生存という観点に立てば、食料や住居のような直接的に生命を維持する要素に比べ、エンターテインメントは不可欠とは言い難い。だが、人間が単なる生物ではなく「社会の中で生きる存在」である以上、この評価は不十分である。

 第一に、エンターテインメントは人間の感情を調整する重要な機能を担う。人は喜び、悲しみ、怒りといった感情を内面に溜め込むのみでは、精神的な均衡を保つことができない。物語や芸能は、安全な環境の中でそれらの感情を経験させ、解放する役割を果たす。笑いは緊張を緩和し、悲劇は共感を促し、怒りは倫理的判断を支える。こうした感情の働きは人間関係の基盤そのものであり、エンターテインメントはその調整装置として機能しているのである。

 第二に、エンターテインメントは社会的なつながりを形成する。人は共通の物語や体験を通じて他者と結びつく。同じ舞台を見て笑い合うことや、同じ作品について語り合うことは、単なる娯楽以上の意味を持つ。それは、個人を社会へと接着する役割を果たしている。もしこうした共有体験が失われるならば、人々は孤立し、社会は分断されやすくなるだろう。

 さらに、伝統芸能はそれ以上に特別な意義を持つ。それは単なる娯楽ではなく、長い時間をかけて形成されてきた「身体知」の体系だからである。たとえば、落語の間合いや能の静けさは、文字情報として完全に伝達することが難しい。それらは実践と体験を通してのみ受け継がれる知であり、過去の人々の感覚や思考様式を現代に伝える媒体である。伝統芸能が途絶えるということは、この身体知が断絶し、人間の感性の選択肢が一つ失われることを意味する。

 また、伝統芸能の存在は「役に立つか否か」という尺度だけで価値を判断する危険性に歯止めをかける。現代社会は効率や実用性を重視する傾向が強い。しかし、すぐに利益を生まないものにも、人間の精神を豊かにする価値がある。むしろそうした「非効率な価値」を保持することが、人間社会の多様性と奥行きを支えていると言える。

 以上の点から、エンターテインメントは確かに生物としての生存にとっては不要不急である。しかし、人間が人間として生きる、すなわち感情を持ち、他者と関わり、歴史や文化の中で自己を位置づける存在である限り、それは決して不要ではない。むしろ社会を成立させるためには不可欠な要素である。ゆえにエンターテインメントは、「不要不急」ではなく「非即時必須の基盤」として再評価されるべきであり、その価値を守り続けることは、私たち自身の人間性を守ることにほかならない。