2026年1月5日月曜日

劇団員へ年頭の挨拶

年末のHTFは、よっぽど良かった。
どの舞台にも挑戦的要素が感じられた。
商業にはならんかも知れんけど、利害や得失を度外視して、誰もが闊達に演じていた。
大人しくちんまり収まった芝居など、若者が指向するべきではないよ。
学生は無責任でいいんだよ。
もっと自由に発想して演劇の可能性を拡げて欲しいんだよ。

さて、我が劇団員に向けて。
せっかく脚本を創作するなら、私はどの登場人物も殺さないのがいいと思っている。
いや、物語上の生死という意味ではなくね。
どの役にキャスティングされても、それぞれに演じ甲斐が感じられる脚本がいい。
自分が演じたいと思えるような人物を造形したい。
生きた人間を描いた脚本にしたい。
意識の流れ、感情の波に嘘があってはいけない。
そして、その物語が演劇でなければ表現できないような要素を孕んでいるほうがいい。
他の表現方法のほうが有効であるなら、演劇という手法を用いるべきではない。
ものさしは生身の役者体が必要とされるかどうか。
役者がのこのこ登場してきて覚えた台詞を順番に喋るだけならそれは演劇とは呼ばない。
※多様性という視点からはそれもまた演劇であるべきなのだが。
なぜその物語は役者体を必要とするのか。
言い換えれば客席はなぜ役者体が舞台上にパリッと揃っているのを見たいのか。
躍動する肉体が見たいからではないのか。
もちろん人間の能力には限界がある。
舞台には制約がある。
だが、むしろその制約を逆手にとるぐらいの気の利いた演出があることが望ましい。
アニメのようなデフォルメされた動きを生身の人間がやってのけるところに客席は感動する。
逆説を弄するようだが、肉体の躍動を表現するためには「静止」することが必要である。
強調表現ばかりでは結局のところ平板な印象の作品に成り下がってしまう。
完全なる「静止」の中には限りなく遠く高く跳躍するためのエネルギーが内包されていなければならない。
そのうえで全体のバランスを取らなければならない。
誰か一人だけが突出していても興醒めだし、沈没していても一座の足を引っ張るだけ。
もちろん劇団全体のスキルがバランス良く向上していくのが理想なので、下手でもバランスが取れてりゃいいとは微塵も思わない。
年が改まり、それぞれ進級が目前に迫ってきているこのタイミングで問いたい。
日々の稽古がルーティンに堕してはいまいか。
馴れ、だれ、崩れ=去れ、は伊達じゃない。
基本をしっかりと身につけて融通無碍に己が肉体を使役できるようになってこそ次のステージに這い上がれるもの。
新入生を迎える前に、この年頭にこそ、我が劇団の理念をそれぞれに確認されたい。






bgm:タントリズム『夏が追いつく前に』